自動車文明をリードする

GMが事業部制組織を採用したことは、その後のデトロイトにおけるGMの優位性を決定的なものにしました。


GMはこの柔軟な組織をフルに活用することにより、中古車検索まで巻き込む自動車文明そのものまでリードすることになりました。


このGMの組織システムでは、巨大組織の中にあっても、自主的な意思決定の機会と絶えざる競争的刺激とが与えられることによって、有能かつ明敏そのものの専門経営者が次々と育つことが可能でした。


またそのようなチャンスを求めて、GMには沢山のビジネススクール出身の優秀な幹部候補生が集まって来ました。


・・・かくしてGMは、いながらにして専門経営者集団によるビジネスの優等生としてデトロイトに君臨することになったのです。


GMのデトロイトにおけるトップの座は、その大きな資本力によって得られたというよりは、大きな資本力そのものを稼ぎ出した組織力によるのです。


やがてこのGMの組織とスローン的マーケティングは、その輝かしい成功によって、デトロイトの他のライバルによっても採用されるところとなりましたが・・・


今日に至るもGMの首位の座は揺るがなかったことは周知の通りです。

人気がある中古車

現在のホンダ 中古車を含む自動車市場・・・


今後、精密な市場予測と、これにもとづくバラエティに富む製品計画の調整が必要です。


フォードのように量産とコスト・ダウンの追求だけに徹するだけなら、単純な一元的に集権化された組織で十分に対応できます。


しかしこのGMの行き方は、量産コスト・ダウンを続けつつ多様な車種を揃え・・・


かつモデル・チェンジを次々と行っていくために、極めて柔軟かつ全体的に調整された組織を確立し維持していく以外に方法はないでしょう。


GMが、本社によって全体的によく調整された分権的事業部制を採用したのはこのためです。


これによってシボレーだのポンティアックといった車種単位の事業部は、生産から販売に至る包括的な権限を与えられた自立的経営単位として互いに同じ社内にあって業績を競い合い・・・


これを本社が巧みに全般的な調整を行って経営のバランスをとっていくことが可能になり、GMの組織は極めて活性化されたものとなったのです。


そしてこの事業部制組織をより効果あらしめるものとして、投資利益率による内部的な財務業績の測定システムが各事業部の専門経営者達の業績をフォローすることになりました。


顧客のニーズに合わせて


大型車中心のアメリカ車独特のカテゴリーの定着やガスガズラー・カー(ガソリンをガブ飲みする車)の出現は、その延長の上にたつものです。


しかし今日の時点からみての価値判断はともかく・・・


このスローン的戦略路線の上にデトロイトの繁栄が招来されたことはまぎれもなき事実であって、長きにわたるアメリカのガソリンの安値安定供給と・・・


とくに戦後の年間400万台規模から年間1000万台規模への自動車市場の拡大がこれを可能にしたといえるでしょう。


このGMのスローン主義的上級移行型マーケティングは、以上のようにデトロイトの繁栄に決定的な影響を与えました。


けれども、これを推進したのはGMの専門経営者の力を結集した組織でありマネジメントのシステムであるとともに、このシステムの効率を正確にフォローする内部利益管理のシステムでした。


顧客の自動車に対するさまざまなニーズに対応して高級車から大衆車まであらゆる種類の車を整然と取り揃え・・・


しかもそれらを定期的にモデル・チェンジして上級移行させていくということは、中古車の検索サイトなどがある今日でこそ定型化されてしまっていて何でもないことのようにみえます。


・・・しかし、実際には大変な組織的対応を必要とするものです。


ホンダの中古車


ニつの考え方を基礎に自らの戦略展開をはかって、1920年代後半以降のデトロイトの自動車戦略をリードし続けました。


この考え方にもとづく、上級移行とモデル多様化のマーケティング・・・


これは、当時のGM社長スローンによって1920年代から開始され、これによってGMは当時のトップ・メーカー、フォードを逆転し、以来トップの座を占め続けることができたのです。


このスローン主義的上級移行マーケティングは、フォードもクライスラーもこれに追随し、デトロイトの自動車マーケティングの基本パターンとなって定着しました。


その結果デトロイトには次々と新しいモデルが登場。


各メーカーは車種の豊富さとモデル・チェンジを競い合って、まさにアメリカ的自動車文明は花ざかりとなった観がありました。


そしてこの傾向は、とくに第2次大戦後になると派手なデザインと大型化、高馬力化を競い合う競争を生み・・・


次第にデトロイトの製品戦略は、ホンダ 中古車などの自動車が大衆商品として登場した時の原点であったかのモデルT型の実用主義から外れていくことになります。


多様化する自動車

デトロイトにあってその自動車文明を支え、そして今後のデトロイト再生の鍵を握るもの・・・


それはいうまでもなくデトロイトのビジネスの優等生GMです。


歴史的にみればデトロイトの自動車文明は、まずヘンリー・フォードによってつくられ、GMによって育てられて来たといえます。


GMがデトロイトにもたらしたもの、それは何であったでしょうか。


まず、フォードは、その標準大衆車モデルT型を世に問い・・・


これを大量生産の軌道に乗せることで、中古車情報の増えた今日の自動車産業の産業としての技術基盤を確立させました。


彼は何よりも自動車というものが、大衆とくに農民の足として真に実用的なものであらねばならないこと・・・


徹底した大量生産とコスト・ダウンによって大衆の手の届く価格でこれを提供し、大衆市場を創出することにその使命をかけました。


これに対してGMは、自動車というものには、単なる実用的な輸送手段以上の何ものかをつけ加えるべきものであること・・・


そして、自動車の大衆市場が一定の成熟段階に達すると大衆はより洗練されたスタイルや居住性と運転性能の車を求め、またそれぞれの所得水準・・・


つまり財布の大きさに応じた車、つまり多様な車種の車が提供されることを歓迎するものであることを明らかにしました。


デトロイトの発展とGM


GMの南部進出計画は、1978年UAWの強硬な反対にあっていちおう御破産になりました。


しかし、このような傾向はその後も続くと思われました。


ただし近年フリントにあるGMのビュイック・シティプラント・コンプレックスのように、日本にならって部品メーカーを組立工場の近くに集約しようとする動きもあらわれており事態は流動的です。


・・・ともあれデトロイトを今日あらしめてきた自動車産業がデトロイトを見捨てるという歴史の皮肉が果して起きるか否か・・・


これは今後のデトロイト自動車産業の歴史的転換のシナリオの動向と関連して注目されるところです。


デトロイトの苦悩と荒廃という否定的側面をみて来ましたが、もちろんこれだけがデトロイトのすべてではありません。


苦悩を背負いながらもデトロイトにはこの都会ならではの産業的活力や技術力の潜在的蓄積という秘められたダイナミズムが眠ってもいます。


それは自動車産業そのものだけでなく多くの関連産業やホンダ 中古車などの周辺産業・・・


そして多くの企業の研究開発組織やマネジメントの中に存在しているのです。


アメリカの自動車市場と中古車市場

1978年まではアメリカ自動車市場では大型車6対小型車4の比率で依然として大型車中心の市場だったのが、79年にガソリン価格が約2倍に急上昇すると消費者が争って小型車を求めるようになりました。


一挙に小型車対大型車比率が6対4に逆転しました。


これは中古車の情報を見ていてもわかりますね。


82年まで続く2ケタインフレと高金利によるデトロイトの自動車不況で、大型車が大量に売れのこるのに、日本の小型車だけは全体市場が縮小している中で供給がむしろ不足するという事態となりました。


日本車の売行きがこのように急増したのは、燃費効率がよいことが直接原因ではありますが、アメリカ車に比べて品質やメンテナンスのレベルがはるかによくなったことも大きくあずかっています。


この第二次石油危機が引き金毛なり、デトロイトの自動車不況が1979年~82年まで、4年越しで続きました。


この時の不況は、29年恐慌以来のショックをアメリカ自動車産業に与えたのです。


アメリカの全体市場は、とくに乗用車では年間約1000万台から1100万台の規模だったものが、少ない時は700万台を切り・・・


しかも全体の3割以上の減少分がほとんどアメリカの大型車に集中したのですから、いかにそれまでの横綱であり、高収益力を誇ったビッグスリーでもこれではひとたまりもなかったのです。


クライスラーの経営危機

第二次石油危機は、ホンダ 中古車の多いアメリカの自動車ユーザーを直撃しました。


1973年末の第一次石油危機の時は、ガソリン税は大衆課税に通じるというのでアメリカ政府はむしろこれを引きさげて値上りを抑えようとしたのですが・・・


第二次石油危機の時にはもうそのような政策を続けることはできなくなりました。


ガソリン節約という大義名分からも、この時になるとガソリンの値上げは原油の値上げに連動するようになりました。


そのためにわたしが1979年初頭ボストンにいたとき、1ガロン60セントあまりだったガソリン価格が、あれよあれよという間に1ドルになり、やがて倍に値上りしました。


値上りしただけでなく、ガソリンの供給も不足し、ガソリンスタンドには長蛇の列ができ、殺傷事件まで起こったと報じられたものです。


ちなみに日本では、第一次石油危機の時には一挙に倍近い石油や諸物価の値上りとなりましたが、この時の教訓に学んでエネルギー節約に努め虎結果、第二次石油危機ではガソリンこそ3割近い値上りになりましたが・・・


ほとんど省エネ技術でもって石油を節約でき、値上りを吸収したので大きな影響は出なかったのです。

ビッグスリーの戦略

燃費規制が決まった1975年当時のアメリカ車の平均燃費は13MPG以下といわれていましたから、燃費規制をクリアするためには生産の大半を占めていた大型車(平均排気量で4000~6000cc)をサイズダウンし、軽量化すること・・・


そしてエンジンの燃費効率を向上すること、そしてそれまであまり手がけてこなかった2000cc以下の小型車の生産をふやすことが求められました。


この厳しい燃費規制に対応するためにビッグスリーは、10年間で800億ドルもの巨額の投資が必要といわれていました。


他方、中古車情報サイトで人気の高い日本車は、元来小型車主体で進んできていました。


燃費は対米輸出の中心だった大衆車クラスではすでに1985年の規制値をほぼクリアする状況でした。


したがって燃費規制に対応するためデトロイトがきわめて大きな投資負担というハンディを背負ったのに対し、燃費のよい小型車中心の日本メーカーはこの点できわめて有利な立場に立つことになりました。


ビッグスリー各社が燃費規制に対応するべくとった戦略は、3社それぞれ違いはありますが・・・


基本的には、ビッグスリーの収益源である大型車を段階的にサイズダウンし、あくまでサイズダウンした大型車で利益を稼ぎながら、徐々に小型車の生産比率を上げていき、両者の相乗効果で燃費規制の基準値を達成するというものでした。


しかしこのシナリオは、1979年10月に起こったイランの政変と、これをきっかけとした第二次石油危機によってもろくも崩れ去ったのです。


中古車情報サイトで人気の・・・

アメリカ政府の燃費規制が1978年からスタートしましたが、これはアメリカが石油輸入国になり、石油代金の支払いがうなぎのぼりになりました。


その上に、第一次石油危機の経験にかんがみ、石油を最も浪費しているアメリカの大型車ガスガズラーカー(ガソリンをがぶ飲みする車)を国策上放置できなくなったためです。


ちなみに中古車情報サイトでも人気のあるアメリカの乗用車は、アメリカの石油消費の3分の1を消費する最大のセクターでした。


この規制は、アメリカメーカーが生産するすべての乗用車の平均燃費を18MPG(1ガロン当たり18マイル走行=だいたいリッター当たり11.7キロ程度)にまず引きあげ、85年までに段階的に27.5MPGに引きあげていくというものです。


しかもこの規制は、もしその年毎の基準平均MPGを達成できないと、0.1MPGごとに、そのメーカーが生産する車1台当たり5ドルの罰金を徴集するということになっています。


これはもしGMが燃費対策を8年間まったくやらずに大型車の生産を続けるとした場合に・・・


その1年だけで20億~30億ドルの罰金ということになって、この金額はGMの利益の大半がふっとんでしまう計算になります。