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中古車情報 アーカイブ

はじめまして

こんにちは♪


今日からblogを始めたいと思います!


ここでは少しずつ自動車の歴史や中古車情報などを紹介していくつもりです。


どうぞよろしくお願いします!


ではまず、石油危機と日本的合理化について書いていきたいと思います。


大幅な減産に踏みきるに当たって、日本の自動車メーカーと部品メーカー各社は、減産しても採算がとれ、かつ多様化した市場ニーズに対応できる日本的合理化に踏みきりました。


日本的合理化はこの時に始まったわけではありません。


1950年代後半から取りくまれてきたTQC活動や、トヨタ自動車のカンバン方式などの流れをくむものです。


しかしながら全メーカーが一斉にそれぞれのやり方でしかも徹底的に取りくんだのは、石油危機で減産を体験して以降のことで、その影響は部品メーカーの末端にまで及びました。


・・・たとえばトヨタ自動車は、70%の操業度でも利益が出せる体制づくりを目指し、トヨタ本体だけでなく系列のあらゆる段階の部品メーカーにもそれが浸透するようにグループあげての力を結集することを呼びかけています。


ジャストインタイム方式とは?

トヨタではすでに1955年頃から、機械土場と組立工場を手始めに、車体プレス、ボディー熔接・・・


そして1963年には鍛造と鋳造を含む全工場の工程にカンバン方式を定着させました。


そして、そのやり方を一部の部品メーカーにも教え、66年にはカンバン納入を直接購入する部品メーカーに指示するにいたっていました。


これをさらに間接購入する周辺部品メーカーと中間材や素材メーカーにもおよぼしたわけです。


カンバン方式は大量生産方式にありがちな見込み生産による作りだめを避け、必要なものを必要な時に必要なだけつくるために生産指示と在庫の引取りの2種類のカンバンを使って・・・


工程における仕掛品の流れに関する情報をそれぞれの作業工程で確認しながら生産を進める生産システムです。


工程ごとに必要最小限の在庫を、必要な時にジャストインタイムで供給するから、ジャストインタイム方式とも呼ばれます。


この言葉は、常に中古車情報をチェックするほど自動車好きの人ならきっと知っているはず。


この考え方は他のメーカー・・・


たとえば日産でNPS日産生産システムとしてライン同期化を進めた経験がありますし、ホンダでも生産ラインのスピードを工程作業の変化に柔軟に適応させるフリーフローラインという形で存在しました。


中古車とジャストインタイム方式

一般にカンバン方式とかジャストインタイム方式というのは、生産工程での在庫を最小限にするストックコントロールという側面が一面的に強調されるきらいがありますが・・・


このシステムでは在庫を最小限に圧縮すると同時に、時間や材料の浪費や欠陥作業によってできたワーク(加工対象)の使用や不適正な機械動作を、内部的に摘発する役割を演ずるものです。


つまり在庫を最小限に圧縮するためには、一切の無駄な原材料の使用や欠陥作業、無駄な作業時間の排除に努め、作業工程で実際に作業する労働者ひとりひとりが問題発見に努力。


問題解決のために工程の実態に合わせた創意工夫を行うことが必要になります。


このシステムのもとでは、事故が多発したり長時間にわたったりする場合には、工程ごとに設置されたライン自動停止装置が働いて作動しないから、欠陥部品や欠陥作業が累積することはありえません。


有効稼働時間の最大限化、欠陥品の最小化への不可避的な圧力を生むのです。


・・・このような圧力は、機械のすぐれたメンテナンスと結びつくとともに、部品メーカーとの関係や生産ラインの作業慣行にも反映し、部品メーカーは一貫して品質の高水準維持に努めます。


こうして造られた自動車は、中古車情報サイトなどで安く購入することが出来ます。


合理化の連携

ライン自動停止装置をもつ現場の作業員は、徹底した無駄の排除と工程作業における欠陥や問題の発見に努めることにならざるをえません。


このジャストインタイム方式の原点が実は、フォードシステムが完成するまでのライン同期化の思想の中にあります。


この原点をフォードシステムが見失っていったのに対し、トヨタは創業者喜一郎がこの原点に着目したことは前にも見た通りです。


ジャストインタイム方式は、生産計画と生産管理を連結した管理慣行の運用を、欧米にありがちの特定の専門家集団だけにゆだねたりすることなく、現場の全員参加の形で実現したところに大きな意義があります。


全員参加の一つの内容として、現場の作業労働者は多台持ちや多工程持ちなどが可能となるように多能工化し、いろいろな工程作業の内容を体得することも見逃せません。


そしてこの方式は、自動車メーカーがまず範を示すことによってその影響が部品メーカーにおよぶという連鎖反応を生む点でも大きな特色をもっています。


部品メーカー自身の意識革命と自動車メーカー・部品メーカー一体となった・・・


文字通り一糸乱れぬ合理化の連携が実現するのです。


中古車の検索サイトなどでもこの合理化の連携は見られますね。


日本の自動車生産と中古車

日本的合理化によって、アメリカでは常識となっていた観がある品質と生産性のトレードオフを打破し、高品質を工程でつくりこむことにょる品質乏生産性の両立した向上をもたらしました。


さらにもう一つ重要な点は、この日本的合理化が石油危機以降のこの時期に、すべての日本の自動車メーカーに浸透したことによって、少ない限られた規模の設備を最も有効に稼働させるやり方が実現し・・・


かつこれが広く定着し、その結果日本の自動車生産のスケールメリットの分岐点が引きさげられる効果が生まれたことです。


中古車情報でも人気のトヨタが70%の操業度での採算点を確保できたのも、この合理化で損益分岐点の引下げが可能になったからであり、他のメーカーでも事情は同じです。


さらにまたこの日本的合理化は、生産工程における生産体制に多くの柔軟性を持ちこみ、技術革新の進行にともなう設計変更や、ロボット化や、マイコンなど新技術の導入に対して・・・


設備や工程のメンテナンスやプレスの型交換のスピードアップ、工程のレイアウトなどの変更によって敏速に対応する条件をつくり出したのです。


要するにこのことによってスケールメリットの分岐点が引きさげられただけではありません。


硬直化しがちな大量生産方式に、多品種少量生産の原則と設計開発のサイクルの短縮やスピードアップに対応できる柔軟性が持ちこまれたのです。


顧客の徹底した重視

日本的合理化が石油危機を契機に急速に浸透したことは、その後の世界の自動車産業に起こった構造変化と技術革新にきわめて適合的な国際競争力を日本の自動車産業に与えることになりました。


これは中古車情報をチェックしていても感じることです。


この日本的合理化を経験する中で、自動車メーカーと部品メーカーの協力体制は、以前にもまして強化されました。


ジャストインタイム納入という形での取引関係はもちろんのこと・・・


いわゆる在来型の自動車メーカーに詳細設計してもらった図面で部品を生産する下請外注加工型の部品メーカーはしだいに少なくなりました。


これに加えて大筋の技術リクアイアメントを書いた承認図だけもらって自主設計する、技術力ある部品メーカーが中心を占めるようになりました。


研究開発体制でも部品メーカーの早い段階からの参画が重要となりました。


その結果在来の下請イメージとは異なる部品メーカーが急速に台頭することになったのです。


石油危機を契機に省資源・省エネルギーの雰囲気が強まり、自動車メーカーの開発戦略もその影響で省資源・省エネルギー型に変化しました。


とくに低燃費車の開発に重点がおかれ、そのためのエンジン改良、車輔の軽量化による低燃費化が進められました。


このような技術開発の方向に沿って電子技術の導入と軽量化のための強化プラスチックや高張力鋼板などの利用も始まっています。

中古車情報サイトのようなサービス

日本の自動車産業の行った挑戦の一つに、中古車情報サイトのような顧客重視のマーケティングとサービスの徹底ということがあります。


日本の自動車販売は、軽自動車を扱っているいわゆる町のモーター屋といわれる業販店を除くとだいたい系列販売で、形の上ではアメリカから導入したフランチャイズ契約によって系列化されたディーラーを通して行われています。


系列販売自体にはいろいろ問題もありました。


しかし、アメリカの自動車販売がとくに系列販売色が薄れてしまってから、とくにディーラーが新車の小売販売にのみ力を入れて整備などのサービスを軽視する傾向が強まりました。


これに対して、日本の自動車販売では、顧客との密着度を高め、徹底した顧客サービスを重視するようになりました。


一県一系列一ディーラーの原則で組織されたディーラーの経営規模は、平均してアメリカよりずっと大きくなり、かつ訪問販売中心だったため大勢のセールスマンを雇うという特徴が生まれました。


こうして顧客との密着度と整備を含めたオールラウンドなサービスの提供で、景気に左右されやすい新車販売の利益をカバーするやり方が一般化していきます。


そして顧客のニーズの迅速なフィードバックと相まって、顧客のかゆい所まで手がとどくと俗に言われるようなサービス活動が定着しました。


・・・このような顧客サービスの徹底は、多くの自動車メーカー間の競争が激しく活発であったために、有効な競争の手段ともなったのです。


素材供給産業の力

日本の自動車産業の国際競争力を急速に高めた要因として見逃せないのは、部品産業だけでなく・・・


鉄鋼、ゴム、プラスチックなど、素材供給産業が国際競争力をつけていたことです。


低コストで高品質、かつ自動車メーカーや部品メーカーの要求する高度かつ多品種の仕様にかなった素材を供給し、緊密な協力関係をうちたてたことも大きな意義をもっています。


これに比べてアメリカでは、鉄鋼産業に最も典型的なように、素材産業自体が技術力と競争力を低下させていったことも、アメリカ車ならびにアメリカ自動車産業の凋落を準備した大きな要素です。


・・・以上のような、戦後の日本自動車産業を育成してきた産業政策と旺盛な企業者活動、競争体質の温存、部品メーカーの育成とこれとの緊密な協力関係、労使関係の安定と現場生産技術の重視・・・


それに、ジャストインタイム生産システムのような全員参加的な日本的生産システムの浸透・・・


こうした構造的要因の相乗作用によって、日本車の低コストと高品質。


そして低燃費の小型車に象徴される日本の自動車産業の国際競争力は飛躍的に高まったのです。


わたしは常に中古車検索サイトをチェックしているほどの中古車好きですが、本当に日本の自動車産業が発展したことは喜ばしいことです。


自動車産業の挑戦

日本の自動車産業が行った挑戦は、アメリカ型のハイボリューム、ハイスピード生産システムの中で歴史的に累積されてきた、単能工主体の複雑な職務構造による労働慣行・・・


それによるワーカーの意欲喪失と労使の信頼関係欠如、部品メーカーを育てない部品生産と取引のシステム、市場動向の変化や環境問題などに柔軟かつ迅速に対応できない硬直化むた生産体系とまったく対照的な、新しい自動車産業のシステムを準備することになりました。


約10年にわたって世界の自動車産業の基本動向を国際的に研究してきたMITの国際自動車共同研究では、この日本の自動車産業のシステムを、欧米の在来型マスプロシステムに対比してリーンシステムと称しています。


まさにこのリーンシステムを全体として追求したことによって日本の自動車産業は、在来型のマスプロシステムに比べて、はるかに少数精鋭で効率がよいのです。


生産性と品質が両立し、多能工主体の労働慣行や市場や技術の変化に対してフレキシブルに対応できる生産システムと、部品メーカーが育ちその品質、コスト、納期と開発力が絶えず向上していくシステムを確立できました。


中古車情報検索サイトのように便利ですよね。


そしてこのリーンシステムが追求される中でこそ、日本版マスキー法や第一次石油危機への対応が可能になったといえるでしょう。


・・・やがてこうして培われつつあった新興の日本の自動車産業の潜在力が、第二次石油危機でアメリカ市場に起こった事態の急変のもとで、劇的な日米逆転のドラマを生むことになるのです。


第一次石油危機と日本車の進出

日本では石油危機直後は国内自動車需要は激減し、とくに乗用車需要が減少しました。


中古車情報などを見ていると今はその需要が復活していることがわかりますが・・・


1976年以降再び需要は1960年代後半~70年代初頭ほどの急成長はみられなくなったとはいえ、着実に増加する傾向をみせました。


そしてこの時期の経済性重視の商品戦略と、日本的合理化で培われた品質、メンテナンスのレベルの高さが、日本車の輸出拡大に結びつき、国内市場が成熟化して急激な伸長がみられなくなった時に、日本車の生産拡大の原動力となりました。


たとえば1975年の生産台数694万台に対し輸出は268万台で輸出比率38.6%だったものが、77年には852万台の生産に対し輸出が435万台で輸出比率が51.1%と遂に輸出が国内を上まわるにいたりました。


これはとくに1973年の第一次石油危機によりガソリン価格が上昇し、アメリカにおける自動車需要の中で小型車需要がふえたことが大きく影響しています。


こうして日本の自動車産業は、世界の自動車王国であったアメリカを中心に輸出を拡大し、アメリカを戦略的市場としながらしだいに国際化の度合を強めていくことになるのです。


・・・このように、第一次石油危機で日本の小型車のアメリカへの輸出は飛躍的に伸びたのですが、まだこの時点では日米逆転は起こらなかったのです。

アメリカ車と中古車

確かにアメリカ車に対する消費者の不信は強まり、日本車のイメージが高まりつつありました。


・・・しかし、アメリカの消費者のアメリカ伝来の大型車に対する執着はまだ強いものでした。


アメリカ車は中古車情報サイトなどでも根強い人気がありますよね。


また、ガソリン価格が上ったとはいっても、産油国から石油の輸入国に60年代後半に転換したばかりのアメリカでは、第一次石油危機の時の日本や、その後の第二次石油危機の時のアメリカのガソリンめ値上りに比べて、値上りの程度がずっと低かったのです。


・・・ですから、日本の小型車がよく売れたといっても絶対的なものでなく、また大型車の売行きが2~3年下ったことは事実ですが、やがて1976、77年と、再び大型車の売行きは回復したのです。


・・・いずれにせよ、石油危機を日本的合理化と技術革新で乗りきった日本の自動車産業の国際競争力は、1970年代後半でもって輸出が全生産台数の過半数を超えたことに象徴されるように、完全に欧米に追いついたといってよかったのです。


しかしアメリカビッグスリーと単純比較すると、1975年時点でGMとトヨタの間には、売上高でGM357億ドル対トヨタ72億ドル。


純利益で12億ドル対1.9億ドルと、売上高でGMが約5倍、純利益で約6倍以上の差がありました。

第二次石油危機とアメリカ市場の構造変化

現にこの当時トヨタの現地ディストリビューターの牧野社長(当時)などは、ビッグスリーは横綱であり、日本メーカーはやっと十両か幕内になったばかりというのが口ぐせでしたが・・・


これは当時のいつわらざる実感だったといってよいでしょう。


ところがこの格差は1988年の数字でみると、GMの売上高1236億ドル対トヨタ477億ドル、純利益はGMの48億ドル対トヨタ17億ドルで、売上高でGMがトヨタに2.5倍強、純利益で2.8倍と、名目的にみてもずっと縮まっています。


ただ実質的な従業員一人当たりの売上高や純利益でいうと、GMが58万3000人の従業員数であるのに対しトヨタが6万5000人という従業員数です。


中古車の中でも人気があるトヨタがほぼ9分の1ということを考慮に入れると・・・


GMの部品内製率が高いことで従業員規模の単純比較はできないのですが、実質的な生産性では完全に逆転していることは容易に理解できます。


ではなぜ1980年代以降、このような日米間の国際競争力の逆転現象がはっきりした形であらわれたのでしょうか。


これには、まずアメリカにおける燃費規制の開始と、1979年とくに顕著にあらわれたイラン政変後の第二次石油危機によるガソリンの不足と価格上昇により、アメリカ自動車市場の構造変化が生じたこと・・・


そしてこの2つの要因が重なって、デトロイトビッグスリーの国際競争力が低下したことが大きな原因となっています。

中古車情報サイトで人気の・・・

アメリカ政府の燃費規制が1978年からスタートしましたが、これはアメリカが石油輸入国になり、石油代金の支払いがうなぎのぼりになりました。


その上に、第一次石油危機の経験にかんがみ、石油を最も浪費しているアメリカの大型車ガスガズラーカー(ガソリンをがぶ飲みする車)を国策上放置できなくなったためです。


ちなみに中古車情報サイトでも人気のあるアメリカの乗用車は、アメリカの石油消費の3分の1を消費する最大のセクターでした。


この規制は、アメリカメーカーが生産するすべての乗用車の平均燃費を18MPG(1ガロン当たり18マイル走行=だいたいリッター当たり11.7キロ程度)にまず引きあげ、85年までに段階的に27.5MPGに引きあげていくというものです。


しかもこの規制は、もしその年毎の基準平均MPGを達成できないと、0.1MPGごとに、そのメーカーが生産する車1台当たり5ドルの罰金を徴集するということになっています。


これはもしGMが燃費対策を8年間まったくやらずに大型車の生産を続けるとした場合に・・・


その1年だけで20億~30億ドルの罰金ということになって、この金額はGMの利益の大半がふっとんでしまう計算になります。

ビッグスリーの戦略

燃費規制が決まった1975年当時のアメリカ車の平均燃費は13MPG以下といわれていましたから、燃費規制をクリアするためには生産の大半を占めていた大型車(平均排気量で4000~6000cc)をサイズダウンし、軽量化すること・・・


そしてエンジンの燃費効率を向上すること、そしてそれまであまり手がけてこなかった2000cc以下の小型車の生産をふやすことが求められました。


この厳しい燃費規制に対応するためにビッグスリーは、10年間で800億ドルもの巨額の投資が必要といわれていました。


他方、中古車情報サイトで人気の高い日本車は、元来小型車主体で進んできていました。


燃費は対米輸出の中心だった大衆車クラスではすでに1985年の規制値をほぼクリアする状況でした。


したがって燃費規制に対応するためデトロイトがきわめて大きな投資負担というハンディを背負ったのに対し、燃費のよい小型車中心の日本メーカーはこの点できわめて有利な立場に立つことになりました。


ビッグスリー各社が燃費規制に対応するべくとった戦略は、3社それぞれ違いはありますが・・・


基本的には、ビッグスリーの収益源である大型車を段階的にサイズダウンし、あくまでサイズダウンした大型車で利益を稼ぎながら、徐々に小型車の生産比率を上げていき、両者の相乗効果で燃費規制の基準値を達成するというものでした。


しかしこのシナリオは、1979年10月に起こったイランの政変と、これをきっかけとした第二次石油危機によってもろくも崩れ去ったのです。


クライスラーの経営危機

第二次石油危機は、ホンダ 中古車の多いアメリカの自動車ユーザーを直撃しました。


1973年末の第一次石油危機の時は、ガソリン税は大衆課税に通じるというのでアメリカ政府はむしろこれを引きさげて値上りを抑えようとしたのですが・・・


第二次石油危機の時にはもうそのような政策を続けることはできなくなりました。


ガソリン節約という大義名分からも、この時になるとガソリンの値上げは原油の値上げに連動するようになりました。


そのためにわたしが1979年初頭ボストンにいたとき、1ガロン60セントあまりだったガソリン価格が、あれよあれよという間に1ドルになり、やがて倍に値上りしました。


値上りしただけでなく、ガソリンの供給も不足し、ガソリンスタンドには長蛇の列ができ、殺傷事件まで起こったと報じられたものです。


ちなみに日本では、第一次石油危機の時には一挙に倍近い石油や諸物価の値上りとなりましたが、この時の教訓に学んでエネルギー節約に努め虎結果、第二次石油危機ではガソリンこそ3割近い値上りになりましたが・・・


ほとんど省エネ技術でもって石油を節約でき、値上りを吸収したので大きな影響は出なかったのです。

アメリカの自動車市場と中古車市場

1978年まではアメリカ自動車市場では大型車6対小型車4の比率で依然として大型車中心の市場だったのが、79年にガソリン価格が約2倍に急上昇すると消費者が争って小型車を求めるようになりました。


一挙に小型車対大型車比率が6対4に逆転しました。


これは中古車の情報を見ていてもわかりますね。


82年まで続く2ケタインフレと高金利によるデトロイトの自動車不況で、大型車が大量に売れのこるのに、日本の小型車だけは全体市場が縮小している中で供給がむしろ不足するという事態となりました。


日本車の売行きがこのように急増したのは、燃費効率がよいことが直接原因ではありますが、アメリカ車に比べて品質やメンテナンスのレベルがはるかによくなったことも大きくあずかっています。


この第二次石油危機が引き金毛なり、デトロイトの自動車不況が1979年~82年まで、4年越しで続きました。


この時の不況は、29年恐慌以来のショックをアメリカ自動車産業に与えたのです。


アメリカの全体市場は、とくに乗用車では年間約1000万台から1100万台の規模だったものが、少ない時は700万台を切り・・・


しかも全体の3割以上の減少分がほとんどアメリカの大型車に集中したのですから、いかにそれまでの横綱であり、高収益力を誇ったビッグスリーでもこれではひとたまりもなかったのです。


デトロイトの発展とGM


GMの南部進出計画は、1978年UAWの強硬な反対にあっていちおう御破産になりました。


しかし、このような傾向はその後も続くと思われました。


ただし近年フリントにあるGMのビュイック・シティプラント・コンプレックスのように、日本にならって部品メーカーを組立工場の近くに集約しようとする動きもあらわれており事態は流動的です。


・・・ともあれデトロイトを今日あらしめてきた自動車産業がデトロイトを見捨てるという歴史の皮肉が果して起きるか否か・・・


これは今後のデトロイト自動車産業の歴史的転換のシナリオの動向と関連して注目されるところです。


デトロイトの苦悩と荒廃という否定的側面をみて来ましたが、もちろんこれだけがデトロイトのすべてではありません。


苦悩を背負いながらもデトロイトにはこの都会ならではの産業的活力や技術力の潜在的蓄積という秘められたダイナミズムが眠ってもいます。


それは自動車産業そのものだけでなく多くの関連産業やホンダ 中古車などの周辺産業・・・


そして多くの企業の研究開発組織やマネジメントの中に存在しているのです。


多様化する自動車

デトロイトにあってその自動車文明を支え、そして今後のデトロイト再生の鍵を握るもの・・・


それはいうまでもなくデトロイトのビジネスの優等生GMです。


歴史的にみればデトロイトの自動車文明は、まずヘンリー・フォードによってつくられ、GMによって育てられて来たといえます。


GMがデトロイトにもたらしたもの、それは何であったでしょうか。


まず、フォードは、その標準大衆車モデルT型を世に問い・・・


これを大量生産の軌道に乗せることで、中古車情報の増えた今日の自動車産業の産業としての技術基盤を確立させました。


彼は何よりも自動車というものが、大衆とくに農民の足として真に実用的なものであらねばならないこと・・・


徹底した大量生産とコスト・ダウンによって大衆の手の届く価格でこれを提供し、大衆市場を創出することにその使命をかけました。


これに対してGMは、自動車というものには、単なる実用的な輸送手段以上の何ものかをつけ加えるべきものであること・・・


そして、自動車の大衆市場が一定の成熟段階に達すると大衆はより洗練されたスタイルや居住性と運転性能の車を求め、またそれぞれの所得水準・・・


つまり財布の大きさに応じた車、つまり多様な車種の車が提供されることを歓迎するものであることを明らかにしました。


ホンダの中古車


ニつの考え方を基礎に自らの戦略展開をはかって、1920年代後半以降のデトロイトの自動車戦略をリードし続けました。


この考え方にもとづく、上級移行とモデル多様化のマーケティング・・・


これは、当時のGM社長スローンによって1920年代から開始され、これによってGMは当時のトップ・メーカー、フォードを逆転し、以来トップの座を占め続けることができたのです。


このスローン主義的上級移行マーケティングは、フォードもクライスラーもこれに追随し、デトロイトの自動車マーケティングの基本パターンとなって定着しました。


その結果デトロイトには次々と新しいモデルが登場。


各メーカーは車種の豊富さとモデル・チェンジを競い合って、まさにアメリカ的自動車文明は花ざかりとなった観がありました。


そしてこの傾向は、とくに第2次大戦後になると派手なデザインと大型化、高馬力化を競い合う競争を生み・・・


次第にデトロイトの製品戦略は、ホンダ 中古車などの自動車が大衆商品として登場した時の原点であったかのモデルT型の実用主義から外れていくことになります。


顧客のニーズに合わせて


大型車中心のアメリカ車独特のカテゴリーの定着やガスガズラー・カー(ガソリンをガブ飲みする車)の出現は、その延長の上にたつものです。


しかし今日の時点からみての価値判断はともかく・・・


このスローン的戦略路線の上にデトロイトの繁栄が招来されたことはまぎれもなき事実であって、長きにわたるアメリカのガソリンの安値安定供給と・・・


とくに戦後の年間400万台規模から年間1000万台規模への自動車市場の拡大がこれを可能にしたといえるでしょう。


このGMのスローン主義的上級移行型マーケティングは、以上のようにデトロイトの繁栄に決定的な影響を与えました。


けれども、これを推進したのはGMの専門経営者の力を結集した組織でありマネジメントのシステムであるとともに、このシステムの効率を正確にフォローする内部利益管理のシステムでした。


顧客の自動車に対するさまざまなニーズに対応して高級車から大衆車まであらゆる種類の車を整然と取り揃え・・・


しかもそれらを定期的にモデル・チェンジして上級移行させていくということは、中古車の検索サイトなどがある今日でこそ定型化されてしまっていて何でもないことのようにみえます。


・・・しかし、実際には大変な組織的対応を必要とするものです。


人気がある中古車

現在のホンダ 中古車を含む自動車市場・・・


今後、精密な市場予測と、これにもとづくバラエティに富む製品計画の調整が必要です。


フォードのように量産とコスト・ダウンの追求だけに徹するだけなら、単純な一元的に集権化された組織で十分に対応できます。


しかしこのGMの行き方は、量産コスト・ダウンを続けつつ多様な車種を揃え・・・


かつモデル・チェンジを次々と行っていくために、極めて柔軟かつ全体的に調整された組織を確立し維持していく以外に方法はないでしょう。


GMが、本社によって全体的によく調整された分権的事業部制を採用したのはこのためです。


これによってシボレーだのポンティアックといった車種単位の事業部は、生産から販売に至る包括的な権限を与えられた自立的経営単位として互いに同じ社内にあって業績を競い合い・・・


これを本社が巧みに全般的な調整を行って経営のバランスをとっていくことが可能になり、GMの組織は極めて活性化されたものとなったのです。


そしてこの事業部制組織をより効果あらしめるものとして、投資利益率による内部的な財務業績の測定システムが各事業部の専門経営者達の業績をフォローすることになりました。


自動車文明をリードする

GMが事業部制組織を採用したことは、その後のデトロイトにおけるGMの優位性を決定的なものにしました。


GMはこの柔軟な組織をフルに活用することにより、中古車検索まで巻き込む自動車文明そのものまでリードすることになりました。


このGMの組織システムでは、巨大組織の中にあっても、自主的な意思決定の機会と絶えざる競争的刺激とが与えられることによって、有能かつ明敏そのものの専門経営者が次々と育つことが可能でした。


またそのようなチャンスを求めて、GMには沢山のビジネススクール出身の優秀な幹部候補生が集まって来ました。


・・・かくしてGMは、いながらにして専門経営者集団によるビジネスの優等生としてデトロイトに君臨することになったのです。


GMのデトロイトにおけるトップの座は、その大きな資本力によって得られたというよりは、大きな資本力そのものを稼ぎ出した組織力によるのです。


やがてこのGMの組織とスローン的マーケティングは、その輝かしい成功によって、デトロイトの他のライバルによっても採用されるところとなりましたが・・・


今日に至るもGMの首位の座は揺るがなかったことは周知の通りです。

超優良企業、GM

GMの成功はそのままデトロイトの繁栄につながり、デトロイトは世界の自動車王国として揺るぎない不動の地位を築きました。


デトロイトの自動車文明が第2次大戦後になるとそのあだ花の象徴のように・・・


スローンですら顔をしかめたといわれる巨大な尾ひれのついたケバケバしい大型車や高馬力車を生み出したとはいっても・・・


まだホンダ 中古車の数が少なかった当時の大衆はこれを歓迎し、アメリカの豊かな社会は、今日の15分の1以下という安い石油の自給が可能であったという現実のもとで、これを許容することができたのでした。


・・・しかしこのようにデトロイトに君臨しえた超優良企業GMにも、いくつかの盲点はありました。


そしてこれらの盲点は、今日のデトロイトが内外に抱えている困難に直結しています。


その第一の盲点というのは、第2次大戦後のビッグ・スリーによる寡占体制の形成以降、寡占体制の座に安住し大型化デラックス上級移行の戦略にのみ没入しすぎて・・・


より実用的で安価な車の開発をまったく無視してきたことです。

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