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アメリカ政府の燃費規制が1978年からスタートしましたが、これはアメリカが石油輸入国になり、石油代金の支払いがうなぎのぼりになりました。


その上に、第一次石油危機の経験にかんがみ、石油を最も浪費しているアメリカの大型車ガスガズラーカー(ガソリンをがぶ飲みする車)を国策上放置できなくなったためです。


ちなみに中古車情報サイトでも人気のあるアメリカの乗用車は、アメリカの石油消費の3分の1を消費する最大のセクターでした。


この規制は、アメリカメーカーが生産するすべての乗用車の平均燃費を18MPG(1ガロン当たり18マイル走行=だいたいリッター当たり11.7キロ程度)にまず引きあげ、85年までに段階的に27.5MPGに引きあげていくというものです。


しかもこの規制は、もしその年毎の基準平均MPGを達成できないと、0.1MPGごとに、そのメーカーが生産する車1台当たり5ドルの罰金を徴集するということになっています。


これはもしGMが燃費対策を8年間まったくやらずに大型車の生産を続けるとした場合に・・・


その1年だけで20億~30億ドルの罰金ということになって、この金額はGMの利益の大半がふっとんでしまう計算になります。

第二次石油危機とアメリカ市場の構造変化

現にこの当時トヨタの現地ディストリビューターの牧野社長(当時)などは、ビッグスリーは横綱であり、日本メーカーはやっと十両か幕内になったばかりというのが口ぐせでしたが・・・


これは当時のいつわらざる実感だったといってよいでしょう。


ところがこの格差は1988年の数字でみると、GMの売上高1236億ドル対トヨタ477億ドル、純利益はGMの48億ドル対トヨタ17億ドルで、売上高でGMがトヨタに2.5倍強、純利益で2.8倍と、名目的にみてもずっと縮まっています。


ただ実質的な従業員一人当たりの売上高や純利益でいうと、GMが58万3000人の従業員数であるのに対しトヨタが6万5000人という従業員数です。


中古車の中でも人気があるトヨタがほぼ9分の1ということを考慮に入れると・・・


GMの部品内製率が高いことで従業員規模の単純比較はできないのですが、実質的な生産性では完全に逆転していることは容易に理解できます。


ではなぜ1980年代以降、このような日米間の国際競争力の逆転現象がはっきりした形であらわれたのでしょうか。


これには、まずアメリカにおける燃費規制の開始と、1979年とくに顕著にあらわれたイラン政変後の第二次石油危機によるガソリンの不足と価格上昇により、アメリカ自動車市場の構造変化が生じたこと・・・


そしてこの2つの要因が重なって、デトロイトビッグスリーの国際競争力が低下したことが大きな原因となっています。

アメリカ車と中古車

確かにアメリカ車に対する消費者の不信は強まり、日本車のイメージが高まりつつありました。


・・・しかし、アメリカの消費者のアメリカ伝来の大型車に対する執着はまだ強いものでした。


アメリカ車は中古車情報サイトなどでも根強い人気がありますよね。


また、ガソリン価格が上ったとはいっても、産油国から石油の輸入国に60年代後半に転換したばかりのアメリカでは、第一次石油危機の時の日本や、その後の第二次石油危機の時のアメリカのガソリンめ値上りに比べて、値上りの程度がずっと低かったのです。


・・・ですから、日本の小型車がよく売れたといっても絶対的なものでなく、また大型車の売行きが2~3年下ったことは事実ですが、やがて1976、77年と、再び大型車の売行きは回復したのです。


・・・いずれにせよ、石油危機を日本的合理化と技術革新で乗りきった日本の自動車産業の国際競争力は、1970年代後半でもって輸出が全生産台数の過半数を超えたことに象徴されるように、完全に欧米に追いついたといってよかったのです。


しかしアメリカビッグスリーと単純比較すると、1975年時点でGMとトヨタの間には、売上高でGM357億ドル対トヨタ72億ドル。


純利益で12億ドル対1.9億ドルと、売上高でGMが約5倍、純利益で約6倍以上の差がありました。

第一次石油危機と日本車の進出

日本では石油危機直後は国内自動車需要は激減し、とくに乗用車需要が減少しました。


中古車情報などを見ていると今はその需要が復活していることがわかりますが・・・


1976年以降再び需要は1960年代後半~70年代初頭ほどの急成長はみられなくなったとはいえ、着実に増加する傾向をみせました。


そしてこの時期の経済性重視の商品戦略と、日本的合理化で培われた品質、メンテナンスのレベルの高さが、日本車の輸出拡大に結びつき、国内市場が成熟化して急激な伸長がみられなくなった時に、日本車の生産拡大の原動力となりました。


たとえば1975年の生産台数694万台に対し輸出は268万台で輸出比率38.6%だったものが、77年には852万台の生産に対し輸出が435万台で輸出比率が51.1%と遂に輸出が国内を上まわるにいたりました。


これはとくに1973年の第一次石油危機によりガソリン価格が上昇し、アメリカにおける自動車需要の中で小型車需要がふえたことが大きく影響しています。


こうして日本の自動車産業は、世界の自動車王国であったアメリカを中心に輸出を拡大し、アメリカを戦略的市場としながらしだいに国際化の度合を強めていくことになるのです。


・・・このように、第一次石油危機で日本の小型車のアメリカへの輸出は飛躍的に伸びたのですが、まだこの時点では日米逆転は起こらなかったのです。

自動車産業の挑戦

日本の自動車産業が行った挑戦は、アメリカ型のハイボリューム、ハイスピード生産システムの中で歴史的に累積されてきた、単能工主体の複雑な職務構造による労働慣行・・・


それによるワーカーの意欲喪失と労使の信頼関係欠如、部品メーカーを育てない部品生産と取引のシステム、市場動向の変化や環境問題などに柔軟かつ迅速に対応できない硬直化むた生産体系とまったく対照的な、新しい自動車産業のシステムを準備することになりました。


約10年にわたって世界の自動車産業の基本動向を国際的に研究してきたMITの国際自動車共同研究では、この日本の自動車産業のシステムを、欧米の在来型マスプロシステムに対比してリーンシステムと称しています。


まさにこのリーンシステムを全体として追求したことによって日本の自動車産業は、在来型のマスプロシステムに比べて、はるかに少数精鋭で効率がよいのです。


生産性と品質が両立し、多能工主体の労働慣行や市場や技術の変化に対してフレキシブルに対応できる生産システムと、部品メーカーが育ちその品質、コスト、納期と開発力が絶えず向上していくシステムを確立できました。


中古車情報検索サイトのように便利ですよね。


そしてこのリーンシステムが追求される中でこそ、日本版マスキー法や第一次石油危機への対応が可能になったといえるでしょう。


・・・やがてこうして培われつつあった新興の日本の自動車産業の潜在力が、第二次石油危機でアメリカ市場に起こった事態の急変のもとで、劇的な日米逆転のドラマを生むことになるのです。


素材供給産業の力

日本の自動車産業の国際競争力を急速に高めた要因として見逃せないのは、部品産業だけでなく・・・


鉄鋼、ゴム、プラスチックなど、素材供給産業が国際競争力をつけていたことです。


低コストで高品質、かつ自動車メーカーや部品メーカーの要求する高度かつ多品種の仕様にかなった素材を供給し、緊密な協力関係をうちたてたことも大きな意義をもっています。


これに比べてアメリカでは、鉄鋼産業に最も典型的なように、素材産業自体が技術力と競争力を低下させていったことも、アメリカ車ならびにアメリカ自動車産業の凋落を準備した大きな要素です。


・・・以上のような、戦後の日本自動車産業を育成してきた産業政策と旺盛な企業者活動、競争体質の温存、部品メーカーの育成とこれとの緊密な協力関係、労使関係の安定と現場生産技術の重視・・・


それに、ジャストインタイム生産システムのような全員参加的な日本的生産システムの浸透・・・


こうした構造的要因の相乗作用によって、日本車の低コストと高品質。


そして低燃費の小型車に象徴される日本の自動車産業の国際競争力は飛躍的に高まったのです。


わたしは常に中古車検索サイトをチェックしているほどの中古車好きですが、本当に日本の自動車産業が発展したことは喜ばしいことです。


中古車情報サイトのようなサービス

日本の自動車産業の行った挑戦の一つに、中古車情報サイトのような顧客重視のマーケティングとサービスの徹底ということがあります。


日本の自動車販売は、軽自動車を扱っているいわゆる町のモーター屋といわれる業販店を除くとだいたい系列販売で、形の上ではアメリカから導入したフランチャイズ契約によって系列化されたディーラーを通して行われています。


系列販売自体にはいろいろ問題もありました。


しかし、アメリカの自動車販売がとくに系列販売色が薄れてしまってから、とくにディーラーが新車の小売販売にのみ力を入れて整備などのサービスを軽視する傾向が強まりました。


これに対して、日本の自動車販売では、顧客との密着度を高め、徹底した顧客サービスを重視するようになりました。


一県一系列一ディーラーの原則で組織されたディーラーの経営規模は、平均してアメリカよりずっと大きくなり、かつ訪問販売中心だったため大勢のセールスマンを雇うという特徴が生まれました。


こうして顧客との密着度と整備を含めたオールラウンドなサービスの提供で、景気に左右されやすい新車販売の利益をカバーするやり方が一般化していきます。


そして顧客のニーズの迅速なフィードバックと相まって、顧客のかゆい所まで手がとどくと俗に言われるようなサービス活動が定着しました。


・・・このような顧客サービスの徹底は、多くの自動車メーカー間の競争が激しく活発であったために、有効な競争の手段ともなったのです。


顧客の徹底した重視

日本的合理化が石油危機を契機に急速に浸透したことは、その後の世界の自動車産業に起こった構造変化と技術革新にきわめて適合的な国際競争力を日本の自動車産業に与えることになりました。


これは中古車情報をチェックしていても感じることです。


この日本的合理化を経験する中で、自動車メーカーと部品メーカーの協力体制は、以前にもまして強化されました。


ジャストインタイム納入という形での取引関係はもちろんのこと・・・


いわゆる在来型の自動車メーカーに詳細設計してもらった図面で部品を生産する下請外注加工型の部品メーカーはしだいに少なくなりました。


これに加えて大筋の技術リクアイアメントを書いた承認図だけもらって自主設計する、技術力ある部品メーカーが中心を占めるようになりました。


研究開発体制でも部品メーカーの早い段階からの参画が重要となりました。


その結果在来の下請イメージとは異なる部品メーカーが急速に台頭することになったのです。


石油危機を契機に省資源・省エネルギーの雰囲気が強まり、自動車メーカーの開発戦略もその影響で省資源・省エネルギー型に変化しました。


とくに低燃費車の開発に重点がおかれ、そのためのエンジン改良、車輔の軽量化による低燃費化が進められました。


このような技術開発の方向に沿って電子技術の導入と軽量化のための強化プラスチックや高張力鋼板などの利用も始まっています。

日本の自動車生産と中古車

日本的合理化によって、アメリカでは常識となっていた観がある品質と生産性のトレードオフを打破し、高品質を工程でつくりこむことにょる品質乏生産性の両立した向上をもたらしました。


さらにもう一つ重要な点は、この日本的合理化が石油危機以降のこの時期に、すべての日本の自動車メーカーに浸透したことによって、少ない限られた規模の設備を最も有効に稼働させるやり方が実現し・・・


かつこれが広く定着し、その結果日本の自動車生産のスケールメリットの分岐点が引きさげられる効果が生まれたことです。


中古車情報でも人気のトヨタが70%の操業度での採算点を確保できたのも、この合理化で損益分岐点の引下げが可能になったからであり、他のメーカーでも事情は同じです。


さらにまたこの日本的合理化は、生産工程における生産体制に多くの柔軟性を持ちこみ、技術革新の進行にともなう設計変更や、ロボット化や、マイコンなど新技術の導入に対して・・・


設備や工程のメンテナンスやプレスの型交換のスピードアップ、工程のレイアウトなどの変更によって敏速に対応する条件をつくり出したのです。


要するにこのことによってスケールメリットの分岐点が引きさげられただけではありません。


硬直化しがちな大量生産方式に、多品種少量生産の原則と設計開発のサイクルの短縮やスピードアップに対応できる柔軟性が持ちこまれたのです。


合理化の連携

ライン自動停止装置をもつ現場の作業員は、徹底した無駄の排除と工程作業における欠陥や問題の発見に努めることにならざるをえません。


このジャストインタイム方式の原点が実は、フォードシステムが完成するまでのライン同期化の思想の中にあります。


この原点をフォードシステムが見失っていったのに対し、トヨタは創業者喜一郎がこの原点に着目したことは前にも見た通りです。


ジャストインタイム方式は、生産計画と生産管理を連結した管理慣行の運用を、欧米にありがちの特定の専門家集団だけにゆだねたりすることなく、現場の全員参加の形で実現したところに大きな意義があります。


全員参加の一つの内容として、現場の作業労働者は多台持ちや多工程持ちなどが可能となるように多能工化し、いろいろな工程作業の内容を体得することも見逃せません。


そしてこの方式は、自動車メーカーがまず範を示すことによってその影響が部品メーカーにおよぶという連鎖反応を生む点でも大きな特色をもっています。


部品メーカー自身の意識革命と自動車メーカー・部品メーカー一体となった・・・


文字通り一糸乱れぬ合理化の連携が実現するのです。


中古車の検索サイトなどでもこの合理化の連携は見られますね。